渋滞とうさぎ




 渋滞に嵌った。

 一向に進む気配の見えない長い長い車の列の中で、旧式のフォルクスワーゲン・ビートルが前にも後ろにも進むことができず、往生していた。運転席には私、助手席にはその体躯を窮屈そうに縮こませる男がひとり。

「進まないね」

 私は一台前のスポーツカーのテールランプを見つめながら、ぽつりと呟やく。ハンドルへ組んだ両腕を置き、その上に顎を乗せて、重たい瞬きを繰り返していた。

「そうだね、進まないね」

 この会話も何度だろう。助手席にいるブルーノもまた、私と同じくこの状況を嘆くようにポツリと返事をした。

 私は上着のポケットから携帯電話を取り出して、時刻を確認する。この渋滞に嵌ってから既に一時間が経とうとしていた。遊星からのメールも届いていた。先ほど送信した、渋滞に嵌った旨と帰りが遅くなる旨のメールに対する返信だった。「分かった。気をつけて帰ってこいよ」とだけ。口数の少ない遊星らしい返信だった。

 道路の先では、ぎゅうぎゅうに並んだ車の間を縫って、数え切れないほどの鶏がよたよたと歩いているのが見えた。その後ろから作業服を着た男が鶏を追いかけている。彼は既に一羽の鶏を小脇に抱えていた。
 なんでも、このネオダイダロスブリッジを数キロほど先に行った地点で、鶏を運んでいたトラックが横転してしまったようだ。それに伴い、荷台に詰め込まれていた鶏たちが逃げ出してしまったらしい。しかし、やっとの思いで捕獲して荷台に戻しても、事故の影響で開いた荷台の穴から再び逃げ出してしまうとのこと。
 トラックは横転、道路には無数の鶏。渋滞の合間を縫ってDホイールで駆けつけたセキリュティが、臨時の交通規制を敷いている。進みたくても進めない有様だった。

「鶏もさ、食べられるくらいなら、一か八か逃げ出してやるっていう意気込みなのかもしれないね」

 ブルーノが冗談めかして言う。確かに、目の先で繰り広げられている鶏と作業員の男の追いかけっこは、さながらトムとジェリーのようだった。

「食べられるって分かってたのなら、逃げ出したくなるのも道理だよね」
 私は唇を尖らせて、言う。「でも、捕まってもらわないと、先に進めないんだよなあ」

 こんなことになるなら、二人乗りでもしてDホイールで来るんだったな。私は車での移動を提案した数時間前の自分を呪わずにはいられなかった。
 旧サテライト地区のパーツショップにて、掘り出し物のパーツがあるだとかなんだとかいう情報を手に入れたので、ブルーノと見に行った帰り道の出来事であった。確かに、買い込んだたくさんのパーツを運ぶには車がうってつけであったので、その点については間違った選択ではないのだが、先ほどから車の隙間を縫って軽やかに渋滞をすり抜けていくDホイーラーを見ると、羨ましく思わずにはいられない。
 横目で助手席を見やると、ブルーノは頬杖をついて窓の外のネオンを眺めていた。苛立ちを覚えるくらいにスムーズな対向車線を行き来する車のヘッドライトが彼の頬や首筋を代わる代わるに明るく染め上げていく。彼の大きい体躯はなんとか助手席にギリギリ収まってはいるものの、大層窮屈な思いをしていることだろう。狭い車でごめんよと、心の中で謝る。思わず大きなため息を零すと、ブルーノはこちらを向いて「どうしたの?」と尋ねてきた。

「うーん……。流石に、そろそろ退屈だなあって」
「そうだねえ……」

 暇つぶしと称してしりとりもしたし、雑談もした。とは言っても、もう何ヶ月も一つ屋根の下で生活を共にしているので、特に目ぼしい話題があるわけでも、それが特別盛り上がるような内容でもなかった。車内が静か過ぎるのも何なので、ラジオをつけてみる。ラジオからは事故の状況が粛粛と報じられていた。死者、負傷者はいないが、交通規制の解除の目処は立っておらず、いつ解除されるかも今の所未定であり、不明であること。帰宅ラッシュの時刻と事故が重なったせいもあり、交通整理が思うように進んでいないこと。以上がラジオから得られた情報。

 未だ鶏との追いかけっこを続けている作業服の男を薄目で見守っていると、男の後方に見覚えのある人物の姿があった。

「あれ?」
 私は上体を起こして、目を凝らす。「ねえ、ブルーノ、あそこ見て。牛尾さんじゃない?」

「ん? どこ?」
「ほら、あそこ。作業服の人の後ろで鶏追いかけてる」

 指を指すも、助手席からはよく見えないのか、ブルーノは私の方へ身を乗り出してきた。外の様子を確認する彼の後ろ髪が軽く、鼻先に触れる。

「あ、ほんとだ」
「牛尾さんまで鶏捕獲に駆り出されてるとはね……」
「僕たちも手伝った方がいいかな?」

 私の方へ少し顔を傾けて彼は言った。端正なかんばせが至近距離に現れて、私は思わず視線を逸らした。照れ臭かったのだ。そして、そのまま「そうだね」と言葉を続けるつもりだった。
 にも関わらず、声を発することが適わない。ブルーノが身を乗り出したままの体制で、唐突に唇を重ねてきたからだ。

「ん、んん?」

 咄嗟の出来事に、私は体を硬直させた。瞬時に頬がぴりぴりと痛み、紅潮していくのが手に取るように分かる。ブルーノはと言うと、一度は口唇を離したものの、それはたった一瞬のことで、角度を変えては再度私の唇を塞いだ。それも、深く、まるで唇と唇を溶接したかのようにぴったりと。

「ん、むぅ……、ちょっと、ブルーノ」
 やんわりと胸を押し返して、睨む。「なに、なに。いきなりどうしたの」

 ピントのぼやける至近距離で、とろんとしたブルーノの表情が、瞬く間に真っ赤に染まっていった。

「〜〜っ! ご、ごめん!」

 ブルーノは慌てて助手席に体を戻すと、その大きな手のひらで自身の顔を覆った。相当恥ずかしかったのだろうか、耳まで茹で蛸のように真っ赤なのだ。その様に、私は笑みをこぼさずにはいられなかった。

「謝らなくていいよ、ちょっとビックリしちゃっただけだから」
「本当に?」
「うん」
「えっと、その、なんていうか……目の前に顔があって堪えきれなかったっていうか……。それに、さっき退屈だっても言ってたし……」

 顔を覆っていた手のひらをずらして、潤んだ目元をほんの少し露出させる。口元は覆ったまま、ブルーノは言った。

「駄目、かな……?」

 199センチの体躯が、気恥ずかしさでみるみるうちに萎んでいく姿はまるで、寂しさに震えるうさぎのようだった。そうだ、忘れていた。彼はうさぎなのだ。それも典型的な。
 シートベルトを外して、私は体ごと助手席に向き直った。照れ隠しに咳払いをこほんとひとつこぼし、視線を逸らしながら手招きをする。

「いいよ、おいで」

 きっと、ブルーノにうさぎの耳が生えていたら、嬉しさのあまり耳をぴんと立てていたことだろう。私の一言にブルーノは瞬く間に表情を綻ばせて、自身のシートベルトを外しては、勢い良く抱き付いてきた。今度は礼儀正しく失礼しますと述べてから、口付けを施す。
 雰囲気に飲まれたのだろうか。二回目のキスは口唇が軽く触れ合っただけだというのに、鼓動は痛いほど脈打ち、私の肩はびくりと跳ねた。割って入ってくるブルーノの舌先は私の歯並びを確認し、舌の動きを追ってくる。顔を固定するように後頭部を抱えられ、舌先を吸われると、もう何が何だかわからなくなって、ただ、気持ちいいという感覚に支配される。

「ぶるー、の」
「ん、もうちょっと」

 互いの唇が触れ合うぎりぎりのところの距離でブルーノは囁く。息継ぎの合間に漏れるブルーノの吐息は、私の脳髄を掻き回すのには十分すぎた。せめぎ合うような激しいだけの子供じみたキスではなく、お互いを尊重し、甘く深いところで混ざり合うような、そんな大人のキスなのだ。最中に変な声を漏らしてしまうこともない。混ざり合った呼吸音だけが、車内に満ちていく。
 体を包み込むようにゆっくりと腰を抱き寄せられて、流されるままブルーノの腕に身を任せた。彼の胸に両手を添えて、続きをしやすいように顔を傾ける。まるで続きをねだっているような、甘く、とろけたしぐさに、ブルーノはより一層感情を高ぶらせたようだった。私の身体を座席に押し倒すように覆いかぶさって、左手で私の乳房を服の上からやわやわと揉みしだく。

「ちょっと、だめ、こんなところで……」

 いくら日が落ちているとはいえ、誰かに見られているかもしれない。ブルーノの左手首を掴んで静止を求めるも、彼は聞き入れようとしなかった。むしろ、人目につきそうなところで、いけないことをしているという類の背徳感が興奮材料になっているようだった。裾からブルーノの左手が入り込んでくる。素肌に触れた彼の指先はひんやりとしていた。なめらかな素肌の感触を味わうようにゆっくりと撫で回すその手は、やがてブラジャーのホックにたどり着く。

、ずっと、こうしていたい」

 吸い込まれそうなほどの真剣な眼差しに、思わずNOと言う単語を忘れてかけてしまいそうだった。
 このままでは歯止めが効かなくなってしまう。これじゃあ暇つぶしでも退屈しのぎでもなく、本気中の本気だ…。

 その瞬間、後ろからクラクションが鳴らされ、私はびくっと反射的にブルーノを強く押し返した。辺りをキョロキョロと見渡せば、長々と詰まっていた車の列が、少しずつ前に動き出していた。

「動いてる、のかな」
「……みたいだね」

 間延びした受け答えを行って、私はそそくさとハンドルを握った。ゆるくアクセルを踏み込んで、前の車との車間距離を詰めていく。

 車内にはどこか少し気まずい空気が流れていた。何事もなかった、なんてことにはならない。よそよそしいような、バツが悪いような。そしてどこか背徳感の伴う。ちらりと横目でブルーノを見ると、彼はまた、助手席の窓辺に頬杖をついて、きらびやかなネオンを眺めていた。

(私たちって、友達以上なのかな。でも、それも少し違う気がする)

 夜中の呼び出しの電話も、力強い歌声に寄り添うピアノの着信音も、甘えたなうさぎのブルーノも、あの夜のあまいキスも、一つたりと忘れたことはない。全ての事象は繋がっていて、いまの二人の関係を構築する大きな要因だ。

 私は髪を掻き上げるようにして、側頭部を小突いた。恋人同士でもないのに、どうしてこんな、遊星達の目を盗んでまで恋人ごっこのようなことをしているのだろう。
 さみしいのだとブルーノは言う。ブルーノはうさぎだから放っておけないんだと私は私に言い聞かせている。

 恋人同士になろうと言ったことも、言われたことも一度もなかった。お互いに。

「ねえブルーノ、こういうことってやっぱり…」
だからだよ」

「へ?」
 ブルーノが私の言葉を遮るように言った一言に、言葉が詰まる。

だからしたいんだよ。別に誰でもいいわけじゃない」

 ブルーノは顔を背けたままぼそりと呟くように言った。しかし、私にはしっかりと伝わるような口調だった。彼の一言は、私の頬を真っ赤に染め上げるには十分すぎる代物だった。


 僕はうさぎさ。


 あの日、あの夜。彼が私に言った言葉がまざまざと蘇る。


 夜は嫌い。孤独は嫌い。暴力も嫌い。でもは好き。気持ちいいのはもっと好き。



 ほんの数十メートルほど車が進んで、前方のスポーツカーがハザードランプを点灯させた。車はまた止まってしまった。仕方なく、サイドブレーキを下ろす。視界の先では相変わらず、人間と鶏のトムとジェーリーごっこが路上にて繰り広げられていた。

「ねえ、ブルーノ」
 私は前を見たまま、静寂を切り裂くように口を開いた。ブルーノの視線は私を真っ直ぐに捉えている。

「まだ渋滞してるみたい」
「うん」
「まだ、渋滞してるんだよ」
「そうだね」

「…また退屈になっちゃった、ん、だけど……」

 恥ずかしさで何もかもが溶け落ちてしまいそうだった。ハンドルを強く握り、額を付けて、おそるおそる上目遣いにブルーノを見遣ると、優しい笑みが私を迎え入れてくれる。

「いいよ、おいで」

 そう言いながらブルーノは、私の体を抱き寄せた。さっきと立場が逆転だ。これじゃあまるで、私の方がキスをしたがってるみたいだ。

 今までとは段違いに強引で、情熱的な口付けが私を襲う。むさぼるような口付けに、今度は体内から脳天まで突き刺すような電流が走る感覚を覚えた。ねっとりと絡まる舌先を弄ばれながら、そういえば退屈しのぎにキスだなんて、よくもまあ思いつくなと思った。ブルーノの甘えん坊さ加減にはいつも驚かされるばかりである。

 そういえば鶏は?手伝わなくていいの?と尋ねると、ブルーノは、もうちょっとしたらね、とだけ返事をした。過ぎていく時を塞ぐように重ねられた唇はなかなか離れることはなかった。
 熱を帯びていく車内を尻目に、ビートルの脇を何羽もの鶏が走り去っていった。まだまだ、渋滞は解消されそうにない。



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