サテライトの夜は美しい。夜空には明るさや色の違う、バラエティーに富んだ数多の星が上空で点を描きながら輝いている。あたりはしんと静まり、人気もない。シティのような煌びやかなネオンサインも、暗闇を延々と照らし続ける街灯も、建物から漏れる照明の光も、ここにはない。シティを眠らない街と表現するのであれば、サテライトはその反対、昏々と眠り続ける街と言えるだろう。
この街の沈黙は止まない。そんなサテライトを、は誰よりも愛している。
物心がついた時から、遊星の背中を見つめるのが好きだった。デュエルをしている背中、集中して文献を読んでいる背中、制作中のDホイールの制御が上手くいかなくて身動き一つ取らずに悩む背中。
気がつけば目の前にはいつも遊星の背中があった。大きくて、誰もが羨望する、広大な大海原のようなその背中は、疲れた時には癒しを、不安なときには安らぎを与えてくれた。Dホイールに夢中な今、遊星はその背中を惜しみなく見せつけてくる。今まで向けられていたへの関心は99%、Dホイール製作へ向かっていると言っても過言ではないだろう。
はソファに深くもたれ掛かりながら、いつものように彼の背中を見つめていた。彼がDホイールの製作に取り掛かってどれくらい時間が経っただろう。何度この光景を目にしたことだろう。彼は一つのことに集中すると、周囲に注意が及ばなくなる性質なのだ。
初めの頃は少しでも彼の力になれればと思い、Dホイール製作の専門書を借りて勉強をしようとしたが、開いて3ページで断念した。難しいなんてもんじゃない。理解の範疇を軽く凌駕していたのだ。
「」
遊星は背を向けたまま名を呼んだ。ぼうっとしていた所為もあって、彼からの呼びかけに反応するまで時間を要した。
「うん?なあに?」
「腹が減ったんだが…なにか作ってくれないか」
そりゃあなあ、とは思わざるを得なかった。かれこれ彼は一体何時間パソコンとDホイールとにらめっこをしていたのだろう?が知る限り、彼が口にしていたものと言えば、冷めきったインスタントコーヒーのみだ。なにせ、ジャックの様子を見に行く前と帰宅後で、彼のにらめっこ体制が変わっていなかったのだから…。三度の飯よりDホイールという言葉がお似合いだ。
「なにか食べたいものは?リクエストある?」
「そうだな…フレンチトーストがいい。作れるか?」
「大丈夫だよ。冷蔵庫に材料あったはず」
腕によりをかけて作りますよ、と述べると、遊星はようやくパソコンから視線を逸らした。振り向いて「とびきり甘いやつを頼む」と言って微笑む。
私は彼のこういうところに弱いのだ、とは思った。
どんな形であれ頼ってくれる遊星。私を必要としてくれる遊星。些細なことでも力になれているという確固たる自信を与えてくれる。三度の飯よりDホイールに夢中な彼が食したいのは、得意料理のフレンチトースト。喜ばずにはいられない。
ジャックに作った時よりもお砂糖多めの、絶妙な焼き加減で焦げ目をつけたフレンチトーストは、一瞬にして遊星の腹に吸い込まれた。目にも余るスピードで食す彼を見る限り、よほどお腹が空いていたのだろうと予測できた。空腹すらをも忘れてしまうくらい夢中なのは良いことだが、目を離せばふとした隙に倒れてしまう可能性だってあるのだ。その危うさに早く気づいて欲しいところではある。一目散に平らげた彼を横目に、は冷めきったマグカップの中身を流しに捨てて、新しく入れ直したコーヒーと手渡した。
「いつもすまない」
湯気の立つコーヒーに息をかけて冷ましながら遊星は続ける。「今、何時だか分かるか?」
は左手の腕時計に目をやる。時刻は夜中の三時をまわったところっだった。それを告げると、遊星はそうか、とだけ返事をして、熱々のコーヒーをゆっくり啜った。
「もうそんな時間か」
「もうそんな時間なのよ」
「眠くないのか」
「まあ、ちょっと眠いかも」
今日は(厳密に言えば昨日だが)仕事終わりに市場へ行ってジャックのために食材を調達したり、マーサの家を訪ねて足りない食材を頂戴したりと、何かと慌ただしい1日だった。が今サテライトで主だってやっているのは、生活のための仕事と、バラバラになった三人の生存確認、及びマーサへ現状報告。それと、彼らのお腹を満たしてあげること。クロウに至っては、自分の事は自分でなんとかしてみせると豪語していただけあって心配事はあまり無いのだが、親のいない子供たちを養っているからと、義賊的な行いをしているのが悩みの種だ。彼の住処には稀に顔を出す程度だが、会うたびにマーカーの数が増えていないかとハラハラせずにはいられない。
「どう?うまくいってる?」
「そうだな…うまくいっていると言えばいっている。だが、どうしてもひとつ噛み合わないところがあるんだ」
「要するに、難しいのね」
「ああ、とても難しい。たくさんの文献も本も雑誌も読んだが、どうもDホイールの原理を俺は理解していないようだ」
遊星はふぅ、と息を吐くと、瞼を伏せた。「うまくいかないものだな」
「疲れてるのよ、きっと」
「そうだな…」
「……遊星、あなたもう何日寝てないか自分で分かる?」
呆れたような口調で尋ねると、遊星はきょとんとした顔を見せた。重たい瞼を薄く開いて、指を折って数えている。一本、二本…指はそこでピタリと止まり、彼は小首を傾げた。
「三日。もう三日も寝てないの。気づいてなかったの?」
は責め立てるように遊星の眼前に三本指を立てて突き出した。
「そう…だったか?」
まったく、呆れたものだと感心するほかなかった。自分で自分の生活の管理さえできていないとマーサに知られたら、数多の小言が遊星を襲っているに違いない。ジャックは食生活だけが疎かだったが、遊星は食事と睡眠という生命を維持するための当たり前の事を疎かにするのだ。ある意味、ジャックより手のかかる男である。
「睡眠を取らないと。寝ればきっと、頭がすっきりして、どうしてもだめなところってやつの解決策、思いつくかもしれないよ」
当の遊星は納得していない様子で、まだやれる、と言いたげだったが、が念を押すように「ね?」と言って背中をぽんと叩けば、折れるしかないと観念したようだった。
「わかった。の言う通りにしよう」
パソコンの電源を落とす。シャットダウン。世界が暗転する。
寝食を共にすると決めるに至ったのは、マーサの勧めであり、遊星の希望もあってのことだった。誰もが遊星を信頼していた。にとっても遊星は友達であり、仲間であり、兄弟であり、家族でもある。例え若い男女が古ぼけたシーツの上で体を密着させて眠りについたとしても、彼らの間にいやらしい感情も衝動も芽生えることはない。
「寒くないか」
遊星が問うと、は顔を横に振ったが、彼はが覆い隠せるくらい余分に毛布をかけてあげた。彼なりの優しさだった。そして、隙間なく身を抱き寄せる。冷たい肌と肌がふれあって、互いを求めるように体温を分け与え合う。次第に帯びてゆく熱に、自然と眠気が誘われた。
「おやすみ」
は遊星の胸板に顔を押し付けて、そっと瞼を閉じた。それに応えるように、遊星はの髪を梳くように頭を撫でた。彼の腕の中で感じる鼓動を堪能しながら、幸せだと思った。当たり前のような毎日が幸せそのものなのだと、眠りにつく前にはいつもふと思う。にとっての幸せとは、代わり映えないのないこの毎日を享受することなのだ。
規則的な寝息が木霊する。闇夜に紛れ込む道化師の口元が、ゆるやかに弧を描いた。