彼の口唇で味わう、目の眩むような紫煙の薫りに気がついたのは、一体いつ頃だっただろう。遥か遠い昔の出来事のようで、ごく最近の出来事だったような気もする。

 いつしか了見が父の遺品だと言って見せてくれた品々の中に、皺くちゃになって潰れた煙草の箱があった。赤と白のコントラストに黒字のアルファベットがあしらわれたそれを、宝箱から大事なものを慈しむかのような手付きでそっと引き出しから取り出した彼は、私の前に並べて見せてくれた。

「父はいつも何か思い悩むと、煙草を一本吸って気分転換をしていたんだ」

 物悲しそうに語る面持ちは、私の知らない彼そのものだった。そして、亡き父の幻影を追いかけるように身体に毒を染みこませる行為を、いつしか遠巻きに見つめるようになっていた。

 憂いを帯びた表情に、骨ばった指先が挟むフィルター、それを咥える妖艶な薄い唇。煙を吐き出す様でさえ、美しかった。一つ一つの細かな動作が絵になる男だと思った。同時に、ベランダに出て、こそこそと隠れるように一服を嗜む姿は、私に副流煙による害を及ぼさんとする配慮はあれど、まるで越えられない大きな壁を隔たれているようにも思えた。そんな些細な事、気にしなくたっていいのに。

 私はもっと彼を知りたかった。知らない事が多すぎた。彼の感情の、知られざる領域に足を踏み込んでみたかった。だから私は、彼の書斎から一本の煙草とライターをくすねて、彼がいつも紫煙を吐き出す場所に立っていた。了見の動作を思い返し、彼を真似てフィルターを咥える。風を遮るように手でライターの火を覆い、先端をじりじりと焼いて、加減も分からないまま煙を吸った。

「うっ…、げほっ」

 結果、噎せた。了見の口唇から味わうものとは違う、煙草の独特な風味に、両目に涙をこさえる。なんだこれは。たった一口吸っただけなのに、喉が焼けるように痛いじゃないか。立ち上る煙が目に染みて、咳き込みながら私は目をぎゅっと瞑った。こんなものをよく平気で吸えたものだと、感心する他ない。

 指に挟んでいた煙草が消えて、瞳を潤ませたまま、はっと顔を上げた。子供の悪戯を見つけた大人がする、呆れたようなかんばせを浮かべた了見がいつのまにか側に立っていた。

「没収だ」

 咎めるような声色で、彼は言った。

「君には早い。それに、まだ未成年だろう」

 そして、私の手から奪った煙草を、これ見よがしに深く吸い込んで見せた。その動作に合わせて、先端が赤く光る。白いフォルムがみるみるうちに灰に侵食されていく。肺に送り込んだ紫煙をか細い吐息と共に吐き出し、ジャケットから取り出した携帯灰皿に、まだ余裕のある煙草を押し付けて火を潰した。

 ごめんなさいと紡ごうとした唇を、彼は口付けで封じた。そして「怒っているわけじゃない」と静かに告げた。

「ねぇ、どうしてこんなもの吸ってるの?」

「さあ…父の影響かな」

「了見も、何か悩んでるの?」

「私は、いつも悩んでばかりだよ」

 了見はそれ以上、深くは語らなかった。歳はたったの二つしか差がないのに、大人の余裕というものを見せつけられた気がした。戻ろう、そう言って、私の手を取り屋敷の中へ引き込む。肌と肌がこうして触れ合っているのに隔たりを感じるのは、何故だろう。



***




 他者を寄せ付けまいとする、了見の神聖なる領域を侵したい欲求が募った私は、以前よりも大胆に、彼のパーソナルスペースに踏み込んでいた。彼は一人が好きだった。私が約束を取り付けなければ、一人で食事をし、一人で買い物に出かけ、時には一人で映画館に足を運んでいるのだ。私は貴方の彼女でしょう、もっと二人で時間を共有しようよ、そう提案すれば、彼はやれやれと肩を竦めてみせた。

「今日は映画を見に行こうと思っていたんだ」

「じゃあ、私も付いていっていい?」

 しょうがないなとでも言いたげに、それでもどこか嬉しそうに、了見は頷いた。私は嬉々と彼の後ろを付いていった。

 彼は一体どんな映画を嗜んでいるのだろう。アクションだろうか。コメディだろうか。壮大なロードムービーだろうか。それとも、見た目に似つかわしくない、ラブロマンスだろうか。

 だが、了見の趣味は私のいかなる予想とも反していた。一体いつ上映されたものかも分からないほど、古ぼけた白黒のフィルムが、スクリーンに映し出され始めたのだ。連れられた映画館も、こじんまりとしたもので、いわゆるミニシアターという所なのだろう。席数は少なく、客足も決して多いと言えない。

 彼は暇を持て余した時に限り、ここで時間を潰す事があるらしい。売店で買った飲み物を手渡しながら教えてくれた。今日の目的の映画は二本。私は一作目の白黒映画を理解し得ぬまま見終えて、欠伸を噛み殺しながら、指定された座席に座っていた。どうやら次に上映されるものが、彼の”本命”らしい。

「Aches and Diamonds、Popiół i diament、灰とダイヤモンド。とある詩人の作品から取ったタイトルなんだ。ダイヤモンドとで、韻を踏んでいる」

 了見はクレジットタイトルを見ながら、私に向かってそっと呟いた。

「私はずっと、このタイトルのことを、肺のことだと思っていた」

 身近に感じられるはずの声が遠かった。だが、遠のいたのは彼の声ではない。私の意識が、遠のいていたのだ。

「んあ……、ごめん。何て?」

 顔を振って、聞き直す。襲い来る睡魔が限界を超えていた。重い瞼をこすって、座席に浅く座りなおし、彼の方へ視線を向ける。了見は些か不服そうに、顔を顰めていた。

「映画館は惰眠を貪る場所じゃないぞ」

「いや…つい…」

「付いて来たいと言ったのは君だろう」

 それはそうなのだけれど。私はばつが悪い思いをしながら下唇を噛んだ。だが、心を入れ替えて映画に集中しようとしても、聞きなれない異国語と、延々と流れる代わり映えのない白黒の画面と、颯爽と流れる翻訳が眠気を誘う。

「つまらないか?」

 彼の目には私は酷く退屈そうに映ったのだろう。呆れ混じりの声音で、視線は画面を捉えたまま尋ねられる。説得力は無いかもしれないが、そんなことはないとの意を込めて頭を左右に振った。ふ、と小さなため息が私の耳に届いた。

「君のような子供には、少し難しいかもしれないな」

「子供って……、二歳しか変わらないじゃない」

「この映画の良さを理解できないうちはまだ子供だ」

 突き放すような物言いに、むっとした。確かに、彼の趣味に関心が無いような立ち振る舞いをしてしまった私に非があるだろう。けれど、彼を理解しようとする努力の一つくらい認めてくれたっていいじゃないか。

「ねえ、その子供扱いやめて」

「君を?無理な話だ」

「私、もう十八なんだけど」

「だが、未成年だ」

「成人してたら大人ってこと?」

「それに、君は一度も私に勝てたことがない」

 恐らく、デュエルの事を指しているのだろう。実際、彼の華麗なるプレイングを前に数え切れ無いほどの敗北を重ねて来ていたので、うぐ、と言葉を詰まらせるしかなかった。そんな私に一瞥をくれると、彼は勝ち誇ったように笑って「ほら、子供だ」と言い放った。

 かちん。頭に血が上った。

「あったま来た。今日という今日は絶対倒してやるんだから」

「ほう。望むところだ」

 映画の上映中だということも忘れ、勢い余って、私たちは立ち上がっていた。向かい合って、睨み合い、デュエルディスクを構える。「In to the VRAINS」、どちらともなくそう呟ことした所で、館員に摘み出された。

「あのね、お客さん。ここはデュエルする場所じゃなくて、映画を観る所だからね」

 ごもっともだった。



***




 興が削がれ、先ほどまでの臨戦態勢もすっかり身を潜めた私たちは、場所を改めてLINK VRAINSに赴くこともせず帰路についていた。肩は並べない。並べられない。足早に進む了見の背中を追いかけるのが精一杯だった。

「いい所だったんだがな」

 了見は振り向きもせずに言う。ぼうっとしていたら彼との距離がどんどん広がっていってしまう。私は必死に脚を動かした。

 この人はいつもこうだ。キスもセックスも、恋人らしい行為はする癖に、私を寄せ付けない雰囲気をどこか身に纏っている。歩く時も、手を繋いでいる時でさえも、歩幅を合わせようとはしてくれず、いつも自分のペースを保っている。私がどれだけ懸命に彼の背中を見つめているかなんて、きっと知らない。

 でもそれは、了見が冷たい人間だからじゃない。私に関心が無いわけでもない。ただ、自分が踏み込まれていい領域を、パーソナルスペースを守っているだけなのだ。

 ただし、その鬱陶しいくらい聳え立つ心の壁が、腹に据えかねることもある。例えば、今日のように。

「興味が無い思ったのなら、先に言ってくれればよかったものを」

「別に、興味なかったわけじゃないもん」

「でも、寝てただろう」

 了見は深いため息を零した。

「そもそも、私は映画館には一人で出かけたい派なんだ。君が来たいと言うから、連れて行ったのに」

「ほっといてくれてもよかったのに」

「それはそれで、寂しいだろう。せっかく誰かと観るのなら、終わった後に感想を述べたり、色々話をしてみたかったんだ」

 横断歩道の赤信号が、了見の歩調を止めてくれた。私は上がった息を整えながら、彼の隣に並ぶ。どこか寂しげな面持ちを浮かべる彼の顔を見上げて、今更かもしれないが、申し訳ないことをしてしまったと罪悪感が生まれてきた。ごめん、恐る恐るそう告げようと口を開いた矢先、了見は言葉を被せてきた。

「…私たちは、不釣り合いなのかもしれないな」

 絶句。どうしてそんなことを軽々しく口にできるのだと、問い質したかったのに、言葉にならなかった。ぽかんと口を開けて、視線を一向に合わせてくれようともしない彼を見据える。

「前から思っていたんだ。君には私よりももっと、相応しい相手がいるんじゃないかと」

「そんなこと……」

 ない、と断言できない自分がいた。思い返せば、私は彼をより一層知りたいと思っていた筈なのに、彼の書斎に並ぶ小難しい本にも、今日観た映画にも、関心を寄せることができていなかった。彼に寄せる探究心は、好意から生まれたものではなく、単なるエゴだったのだろうか。

 私は俯いて、自分の足元を見つめる。涙が滲むほど胸が苦しいのは、早く歩いた所為だと思いたかった。なんだか気まずい。早く、信号変わってくれないかな。

 重苦しい沈黙を拭うように、了見は口を開いた。

「無理しなくていい。無理に付き合おうだとかも思わなくていい。それに、私に飽きたら、新しい男を探せばいい。君は前途有望な若者だ。私のような後ろ暗い過去を背負う男に時間を割くなんて、非生産的だ」

「……なんで」

 私の声帯は弱弱しく、震えていた。息を吸って、吐く。肩を上下に動かした所為で、両目いっぱいに溜まっていた涙が頰を伝った。拳を握り、意を決して、声を潤ませながら、思い切り叫んだ。

「なんでそんなこと言うの、バカ!」

 信号待ちをしていた人々が、一斉に私を見た。構うもんか。顔を上げることもできないまま、続ける。

「無理してるだとか、非生産的だとか、相応しくないだとか、勝手に決めつけないでよ!私はもっと、あなたのことが知りたかっただけで、私が、私が好きなのは、了見だけなのに、」

 視界の端に映る了見の手が、ぴくり、と揺れた。?と名を呼んで、顔を覗き込んでくる。酷く驚いた様子の顔つきに、私は我に帰った。感情の高ぶるまま思うままに口走った言葉を思い出し、顔を真っ赤に染めて、手で口元を押さえた。

 好きだの愛してるだの、恋慕の情を口にしたのは初めてだった。お互いの気持ちを知っていたからこそ、一緒に居ることは息を吸うことと同然のように思っていたからこそ、言ったことが無かった。今まで、一度も。

「ご、ごめん…」

 消え入りそうなほど、情けない声を出していた。ぼろぼろと溢れる涙をこれ以上見られたくなくて、肩に伸ばされた手を払いのけた。信号が青に変わり、踏みとどまっていた人々が一斉に歩き始める。波のようにうねっていく人の群れに押され、割り込まれて、了見との距離がどんどん広がっていった。

「ごめん、了見。さっきの映画の続き観たいから、私戻るね。先、帰ってて」

 了見の返事を待たず、私は人の流れに逆らうように踵を返し、駆け出した。

 肝心な時にこんな不器用な行動しか取れないなんて。彼が私に相応しくないのではない。私が彼に相応しくないのだ。マイナス百点。私の恋愛偏差値はとてつもなく低いと思う。



***




 苦い顔をする館員に迎えられ、私は再びそっと映画館の中に入った。暗いホールの中に、ほの白い光が静かに満ちていた。それが、私の浮き足立った心をほんの少し落ち着けてくれた。

 今度は一人で、席に座り、暗闇の中に身を委ねる。

 スクリーンの中では男の人が、撃たれ、シーツを血で染め、追われて、汚いごみの集積場の上で乾いた笑いを上げながらもがき苦しんでいた。何の知識も無いし、ずっと観ていたわけでもないのに涙が出た。了見は怒っただろうか。呆れただろうか。スクリーンがぼやけて見えなくなる。鼻を啜り上げながら、私は乱暴に目尻を擦った。

「泣けるだろう」

 静かな声で尋ねてくる、男の声がある。

 私の隣に深く腰掛けて、耳元に優しく語りかけてくれる。

「時代の波に飲み込まれて、悲惨な最期を遂げる様が、まるで昔の自分を見ているようなんだ。本当に良い映画なんだ。君にも分かるといいんだが」

 彼の体から、微かに煙草の匂いがした。私はこの薫りを知っている。喧嘩だとか、仲違いが生じた後に、仲直りの印だと言って口付けを交わす時の薫りだ。

「まだ分かんない、」

 いつも悩んでばかりだ、と言う了見の言葉を思い出した。彼の過去を知らない私が、ずっと私ばかりが、彼を想い、追い求めているのかと思っていたが、どうやら違うみたいだ。彼も彼なりに、私を想って、悩んで、考えてくれていたのだろう。その度に、肺に煙を吸い貯めて、言葉に出来ない想いを口唇に乗せていたのだ。なんだ、単にお互いに不器用なだけじゃないか。

 私は涙を拭って、笑顔を見せた。

「分かんないけど、教えてよ。頑張って覚えるから。私は、もっとあなたことを、知りたい」

 暗闇の中、どちらからともなく、唇を重ね合わせた。

 いつもの彼の唇、仄かに薫る煙草の匂い。それを吸い込むように、深く深く呼吸をする。肺の中に、ダイヤモンドが満ちていく。



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