据え膳食わぬは男の恥
「えーと、つまり、こういうこと?…あんたの彼氏、鴻上了見、だっけ。そいつは、イケメンで背が高くて頭も良くて頼りがいがあって、非の打ち所が無いくらい完璧な彼氏なんだけど、恋人らしい触れ合いは手を繋いだりするくらいで、セックスはおろかキスすらもまともにしたことが無い。で、いつか来るその瞬間の為にコンディションを整えているものの、一切その予兆を見せることもない、と」
高校を卒業して以来、久々に顔を合わせた友人は、アッシュブラウンに染めた髪をネイルアートの施された指に巻きつけながら私の取り留めない悩みを要約してくれた。
「さいです…」
私はぴくりと首を竦めて、友人の顔色を伺う。瞬きをするたびに揺れる黒く色づいたまつ毛が、彼女の大人びた風貌に拍車をかけていた。たった数年顔を合わせていなかっただけで、こんなにも人は変わるのだな、と思いながら、グラスに浮いた氷のかけらをストローで掻き回す。
「付き合ってどのくらい経つの?」
「多分、もうすぐ二年だと思う」
「二年?!」
髪に絡めていた指の動きが止まった。信じられない、とでも言いたげな驚愕に満ちた表情を浮かべ、向かい合って座っていた友人はテーブルに手をついて腰を浮かせて前のめりになる。その勢いに思わず仰け反った。
「うわー、何、今時プラトニック!?流行んないよそれ!」
「だ、だって…」
私が眉尻を下げながら情けない声を出すと、彼女は咳払いを零して椅子に浅く座りなおした。私たちが居るカフェはランチタイムが終了していたおかげか、閑散としていたので下手な注目は浴びずに済んだものの、離れた席に座っていたカップルがこちらをなんだどうしたという目で見ていた。私たちは慌てて、こそこそと身を隠すように背を丸めて、カップルに向かって、お騒がせしてすみません、と軽く会釈をする。
「やっぱ、変なのかな」
「変だよ、絶対変」
困ったように頭を掻く友人は、ううんと唸っていた。大学に進学してからたくさんの男性と経験を重ねた、と豪語する彼女がそう言うのだから(だから私は相談相手に彼女を選んだのだ)、やはり私と了見の関係は誰の目から見ても「変」なのだろう。友人は念を押すように「ありえない」と呟く。
「指輪までくれたのに、何もしてこないって、どういうことなのよ」
「それは私が聞きたいよ…」
私は左手の薬指の指輪に視線を落としながら、深いため息を吐いた。付き合って間もない頃に贈ってもらったペアリングは、了見が「魔除け」と称して私の指に嵌めてくれたものだ。…ていうか、魔除けって。今思うと、彼の言葉のチョイスには疑問を感じざるを得ない。
視線を友人に戻す。彼女は、肌を大胆に露出させた色気漂う服装をしていた。反対に、自分は肌の露出を最大限に控えた格好をしている。もしかして、彼女のように扇情的な格好をしたほうが了見は喜ぶのだろうか、と本気半ばで考え、友人の洋服をまじまじと観察した。
「なに見てんのさ」
絡みつくような視線を不審に思い、友人は眉を顰めた。
「あ、いや、なんでもない」
「で。はさ、どうしたいの?どうやったら意中の彼との親睦を深められるか、とか、そういうことを知りたいわけ?」
「まあ…うーん。そういうことかも」
「はっきりしないなぁ」
「だって、私、男性とお付き合いするなんて彼が初めてだから、何をどうしたらいいのかとか全然分からなくって」
友人の圧に萎縮しながら述べると、彼女は「そういうとこじゃないの?」とぴしゃりと言い放った。どういうことだ、と私は小首を傾げる。
「そういう、いかにも純情ですってオーラを放ってるところ。そんなんだから、彼も手を出しにくくなってるんじゃないの?」
考えてもみない返答だった。
「大事にされるのは悪いことじゃないけどね。のガードが堅すぎて、手を出したくても堪えてたりして。見た感じ、ウブっぽそうなのは相変わらずだし」
「なのかなぁ…」
とは言え、私と了見は現在進行形で同棲しているし、就寝の際は同じベッドで寝ている。いくら私が手を出しにくいオーラを放っていたとしても、男の人はやすやすと欲求を抑え込められるものなのだろうか。考え込み始めた私を見かねて、友人は不敵に口元を歪めた。
「ねぇ、一つ提案。抱かれたいんでしょ?だったら迫ってみたらいいじゃない。据え膳食わぬは男の恥って言うでしょ」
考えられる可能性は三つ、と友人は言った。一つは、ガードが堅すぎて手を出しにくい可能性。二つ、子供もしくは妹のように思われている可能性(つまり色気がない)。最後に、了見がかなりの奥手という可能性。
つまり、関係の進展を望むのであれば、全ての可能性を潰した上で、私から仕掛けてみるのはどうかということだった。
その日の夜。友人に勧められるがまま買った、黒いレースがあしらわれたフロントホックの際どい下着を身にまとい、私は了見をベッドの上に組み敷いていた。
「……と言うわけで、私は今から了見を襲おうと思います」
彼の自由を奪っているのは、某驚安の殿堂のアダルトグッズコーナーで買った手錠だ。就寝前にリラックスした様相で本を読み耽る彼の意表を突き、片腕に輪をかけた。何をしているんだ、と鳩が豆鉄砲を食ったような顔をされたけれども、やると決めたからには突き進むしかない。怯んでいるうちが攻めどき、力任せに彼の体躯を押し倒し、空いた方の輪を背もたれの隙間に通して、私はもう片方の手首の自由を奪った。
「待ってくれ。なにがどうなって、そうなるんだ」
「了見。据え膳食わぬはなんとやら、だよ。知らないの?」
「知ってるが、おい、待て、待つんだ、」
パジャマのボタンを一つ一つ外し始めると、了見はいつものクールな様相とは打って変わって焦りの色を見せた。自由の利かない両腕をばたつかせ、もがく様がなんだか可愛いと思ってしまった。サディズムに片足を突っ込んだ気分だ。だが一度ついた火がそう簡単に鎮火するはずもなく。
「だめ。待たない。待ってたって埒あかないって、分かっちゃったんだもん」
ボタンを全て外すと、健康的な肌と筋肉質な上半身が露わになった。六つに割れた腹筋と、肉厚な胸板に思わず喉が鳴る。そっと突起に手を這わせると、彼はぴくりと肩を震わせた。
「っ、、変な真似はよせ」
了見は身を捩って抵抗を目論むも、頭の上で奪われた両手の自由と女性一人分の体重がのしかかった中ではそれを完遂できることもなく、手錠の安っぽい金属音が辺りに虚しく響き渡るだけだ。私は了見の首筋に顔を埋めて、舌を這わせる。そのまま舌先を下降させ、鎖骨をなぞり、窪みに唾液を溜め込むように音を立てながら吸い付いた。胸元をまさぐる手の動きに合わせて揺れる彼の吐息に、体の奥底が熱くなる。
あ、なんか目覚めそうかも…。
「、人の話を聞け」
「そんなこと言ったって、了見、大きくなってるよ」
腰を浮かせて、彼の膨張した下半身に触れる。一際大きく彼の体躯が揺れたのを私は見逃さなかった。にやり、と口元を歪めて、喜色の笑みを向ける。了見は眉間に皺を寄せて、どこか苦しそうに歯を食いしばった。
「…そんな風に舌や指を使われたら、どんな男でもこうなる」
作戦フェイズその一、”男としての性を目覚めさせろ”はどうやら成功のようだ。友人が親指を人差し指と中指に挟んで握りこぶしを作り、古めかしいジェスチャーを交えながら告げた「男ってのは体は正直だからね。女に迫られていつも通りでいられるわけがないのよ」という言葉は正しかったことが証明された。
作戦フェイズその二は、なんだったっけ。確か、「後は流れに身を任せろ」。
………。
(いや、こっからどないせいっちゅーねん!)
肝心なことを聞き忘れていた。私は処女だ。男性経験が無い。ましてや、男性を押し倒すのも、これが初めての目論見だ。頭の中で友人がGOサイン宜しく親指を立てている。いやいや。ちょっと待って。ここから性行為に持ち込むなんて、経験豊富な友人だからこそ出来ることであって、経験人数ゼロ人の私にはハードルが高すぎやしないか?
私が固まったままでいると、了見は低い声で嗜めるように言った。
「、いい加減にしろ。馬鹿な真似はよせ」
「…やだ」
「…退いてくれ。いい子だから…頼む」
懇願する彼の顔は、男性特有の体の反応と相反して、呆れの色を浮かべているように映った。
一抹の不安がよぎる。嫌、なんだろうか。私とするのが、そんなに?
「了見は私とするの、嫌?」
「そうじゃない…、ただ、今はまだその時ではない」
「じゃあ、いつならいいの」
「…………」
なぜ黙る。顔を顰めて睨むと、彼は罰の悪そうに顔を逸らした。その行為の意図は知れずとも、それがなんだか、私にはショックだった。
彼女なのに。一人の、女性であるはずなのに。もしかして、彼は私をそういう目で見てくれていないのだろうか。
「とにかく、肌を隠してくれ。目のやり場に困る」
その言葉を最後に、私の涙腺は意図せず決壊した。ここまでしたのに、止めろと言うのか。私は一般的な男女の営みを了見としたいだけなのに。動揺が隠しきれず、口唇がわなわなと震える。こみ上げる不安が形となって現れてしまった。
「?! どうして泣くんだ」
「りょ、了見の馬鹿!」
「ば…?!」
「わ、私は…!いつこうなってもいいようにって、太らないようにだとか、ムダ毛だとか!いろいろ!気をつけてたのに!」
涙の理由を察したのか、了見はおろおろと取り乱し始めた。
「私はずっと待ってて、了見に抱いて欲しいってずっと思ってて…!だから今日だってこんな際どい下着まで買ってきたのにさ、馬鹿みたいじゃん」
「そんなことは…」
「それに、指輪くれた時だって、魔除けとか言い出すし…?!もう、何考えてるのか、わけわかんない」
「それは…お前に悪い虫が付かないようにと思って…」
一体何があったんだ、と問う彼に、私は昼間の友人との会話の顛末をぽろぽろと説明した。付き合って二年経つのに進展が無いこと、抱いて貰えない理由が分からないこと、どうしたらその気になって貰えるのか二人で考えたこと。結果、襲っちゃえ!と計画を練ったこと。
「なるほどな…」
彼は口を僅かに尖らせて、優しく諭す。
「、違うんだ。決して、お前に興味がないとか、魅力が無いだとか、そういうわけじゃない」
「じゃあ、どういうことなの」
目を閉じて、ふぅ、と吐息を漏らすと、意を決したのか、彼は言葉を紡ぐ。
「…笑わずに聞いてくれるか」
私は目をごしごしとこすって頷いた。
「私は女性と性行為をした試しがない」
「それが…?」
「……格好悪いだろう。タイミングだとか、どうすべきなのかとか、分からないんだ」
決まりの悪そうに告げる様に、私は肩の力がすっと抜けていくのを感じた。それだけ?と尋ねると、それだけだ、と彼は答える。
「な、なんだぁ…」
「すまない。お前を大切に思うあまり、不安を抱かせてしまったようだな」
「てっきり、私にはそういう気持ちが少しも湧かないんだって思っちゃってたよ…」
そんなことはないと、彼は顔を左右に振る。申し訳なさそうな面持ちに、涙は引っ込んでいた。
「。これを外してくれないか」
「…逃げたりしない?」
「しない。約束する。お前の気持ちに応えられるよう、善処する」
私はサイドボードの引き出しに潜ませておいた鍵を取り出す。
「…それに、今はただ、に触れたい」
左右の穴に鍵を刺して回してる最中に、そんなことを言われた。安っぽい音を鳴らしながら、手錠が外れる。束縛を解かれた彼は、身を起こして、私をそっと抱きしめると、耳元で囁いた。
「至らぬ点があるかもしれない。痛い思いをさせるかもしれない…、それでもいいか?」
熱を帯びたその言葉に、私の体の奥底が疼くのを感じた。一人で考えあぐねて、暴走して、酷い勘違いまで起こして申し訳ない気持ちはあったけれど、奥手な彼とようやく一歩前進できるのだから、私のアプローチは間違いではなかったんだろう。
「…ところで、これはどうやって外すんだ」
確かに分かりにくいよなあ、なんて思いながら、背中で答えを探すように這い回る手を胸の谷間に誘導する。胸囲の圧迫感が解けて、私はゆっくりと息を吸った。